池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

器用に生きようとする不器用さ

感謝をするだとか

良い気分で生きるだとか

そのことで救われる自分もいるのだが

 

都合のいいところだけをみて

生きていくことによって

 

自分の中で蓋をして

扉を閉めて

鍵をかけて

なかったことにしてた部屋が

あったことに気がついた。

 

気づかないようにしてた感情

なかったことにしてしまった想いがある。

 

許せないことすら

許したことにして

本当の気持ちを否定し続けていたのは

自分自身だった。

 

ああこうやって

本当の声に建前を重ねて

自分の気持ちが

わからなくなっていったんだ。

 

子どもの頃から

空気を読むことに必死だった。

自分の本音よりも

人の顔色を見て生きることが大事だったから。

器用に生きようとすればするほど

どこまでいっても満たされない自分。

 

不器用でも良いから

誰かにとっての良い人ではなく

自分にとって良い人で生きる方が

正解なのかもしれない。

 

いったい誰の人生を生きているんだ。

いつまで人の顔色を伺って生きているんだ。

 

自分自身に問いかける。

 

たとえ

痛くても

心地よくなくても

ちゃんと自分自身が

感情の蓋を開けることで

踏み出せる一歩がある。

 

怒りだとか 悲しみだとか

本当はあるのに...感じているのに...
笑顔を作って

なかったことにしなくていい。

 

この怒りをちゃんと表に出していい。

 

まだ成仏できていない

怒りや悲しみに

耳を傾ける日があっても良い。

 

自分が自分として生きることに許可を出す。

空の裂け目に覗いた心

モヤモヤと曇った思考

いつになったらこの雲は

晴れるのか...

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相変わらず空ばかり見上げてる。

 

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ふとした瞬間 空が割れた。

 

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光を見上げながら思う。

自分にとっての光とはなんだろう。

 

空を見上げながら

相変わらず

自分の心見つめてる。

心の充電

「今、ご機嫌ですか?」

 

これは最近

自分自身に問いかけてることです。

 

自分自身が不機嫌でいる時

自覚のないところでも

周りに迷惑かけているかもしれません。

 

できるだけご機嫌でいよう。

これは自分の決めごとです。

 

何が自分を

ご機嫌にしてくれているのだろう?

そういう視点で周りを見渡すと

すでに色んな恩恵を

受けていることに気づくのです。

 

例えば

今日はお日様が出てる。

風が肌触り良く気持ちが良い。

お風呂のお湯が心地よい。

 

どう心地よいのか?

それらのエネルギーは

自分を満たしてくれているものです。

 

ちゃんと感覚を開いて生きていたい。

 

不機嫌で生きている時

恐らくそういうことにすら

気づかないまま

生きてしまっている。

 

“意味”のひとつの側面は

自分の感じた気持ちをしっかり味わう

ことから生まれるのかもしれません。

 

ちゃんと味わうことは

とても贅沢なことだとも思うのです。

 

自分にとって

ご機嫌でいることは

盲目的な決め事ではなく


感覚を研ぎ澄ませることで開く扉です。

 

ご機嫌という扉から世界を感じるとき

ちゃんと自分を元気にしてくれるものに

自分は囲まれてるという事実に立ち返ります。

 

 

エネルギーに満ち満ちた時

自分は何を表現したいと思うのだろう?

 

その時の自分には何ができるだろう。

 

日々ご機嫌でいる修行は

まだまだ始まったばかりです。

虹色の日々

今年の個展

キーワードのひとつが

”空“
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最近は空ばかり見上げています。

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”どこに辿り着くか“も

大事かもしれないけれど
その道のりや見える景色

プロセスがすでに尊いのかもしれない。

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空を見上げながら

ふとそんなことを思いました。

 

この目でこの目を見る

ここ何日かずっと考えている。

自分が本当にやりたいことは何か?

 

色々削ぎ落としてみて

行き着いた答えは

“心の声とお話をしたい”ということ

表現を通した心の対話。

 

表現とはひとつ

私にとっての“目”かもしれない

とふと思った。

 

私が見たもの考えたこととしての

私自身の目

 

見えるばかりが全てじゃない。

見えないものに目を向けて

目を凝らす日もある。

 

誰かの表現を前に

表現する人の目を覗き込む時

その目(表現)を通して

この目でこの目を見てることに

ハッとすることがある。

 

 

私の目を見てる誰かが

自分の目に映るその人

自身をみてることがある。

 

誰かに言ってるようで

自分自身に向けられた言葉とか。

 

目の奥で見ているのは

他人か自分自身か。

 

 

窓ガラスの反射越しに重なって映る

自分とその向こうの誰かに

語りかけるような

語りかけられているような

 

「あなたは誰?」

問いかけながら

問われてるのは自分

 

今の私にとって表現とは

目と目の対話。

 

「言葉を尽くさずとも

あなたの言いたいことは分かったよ。」

 

そんな微笑み 

そんな頷き

そんな意思の疎通。

 

対話とは

説明ばかりのやりとりじゃない。

 

沈黙が対話だってこともある。

 

風に揺れる木々が

今日は何かを言いたそうに見えた。

 

道標

“頭や理屈ではなく

感性や心をつかって表現がしたい。”

 

表現を続けていくにあたっての

今の自分の願望であり

どう生きたいのかの指針です。

 

どんな人間でありたいか?

大事にしたい価値観はなにか?

 

自他問わず

本心の部分(心の声)に

耳を傾けることのできる人でありたい。

 

気づいてくれてる人がいる。

理解してくれてる人がいる。

という状態は安心であり

癒しだと思うのです。

 

 

まとめると

 

自分の価値観を大事にしながら

やりたいこととは何か?

自身自身が本心や心の声と対話をしながら

感性や心をつかって表現をする。

 

それが見てくれた人にとっての

心の声との対話の

きっかけになったら嬉しい。

 

どこに向かってるのか、

時々迷うこともあるけれど

自分の望みに旗を立てたら

少し視界が開けた。

 

改めて

前を向いて進めそうな気がした。

大丈夫

人の心の光と影。

存在するものはみな多面的だ。

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表現とは何か?

本当の事とはなにか?

自分自身に問いかける。

 

人間らしい生き方ってなんだろう。

人間的価値とはなんだろう。

 

大変なこと辛いこと

ネガティブなことは

見ない

あるいは

なかったことにしてしまいたい。

 

それは人の心理なのかもしれない。

 

楽しいこと

良いことばかりに目を向けることは

ポジティブなのかもわからないけれど

 

都合の悪いことに対して

無関心を装うその姿勢は

愛から程遠い。

 

他人に対してもそうだが

自分自身に対しても

してしまってる無関心。

 

開きたくない感情の扉。

今もそこにいる小さな子ども。

 

恐らく今も待っている。

 

「大丈夫?」

そう聞いて欲しいのではなくて

「もう大丈夫だよ。」

そう言ってくれる誰かをずっと待っている。

 

 

唐突に入り口の窓ガラスが割られたあの日

入り口は逃げ道としては塞がれ

そこから逃げるには

5階のベランダから

飛び降りるしか選択肢はないと思った。

だけど怖くて出来なかった。

 

「誰か助けて下さい。」

喉が潰れる程に

外に向かって大声で叫び続けたけれど

見ず知らずの自分達を

助けに来てくれる人は誰もいなかった。

 

怖くて逃げられなかった自分。

立ち向かっても傷つくばかり。

 

結局、警察のお世話になった。

 

その場しのぎの解決しか見いだせず

自分の力で何も変えられないことが

ただただ悔しかったことを覚えてる。

 

暴力に対して暴力で立ち向かっても

終わらない戦い。

自分の正しさを押し付け合う

その渦の中にいたら終着地点は

誰かがが死ぬまで続いたと思う。

 

白黒つけることが

自分の正義だと思ってた10代。

 

自分の正しさを押し付ける以外の

正しさを探した20代。

 

30になった今でも許せない線引きはある。

 

けれども許せないことは

自分自身をもその対象に縛りつけてしまう。

 

許せないことまで許す

というのはなかなかできることではない。

 

けれど人はひとつひとつ

許すことを考え経験しながら

物事を多面的に見ることを

学んでいく。

 

何故 人は何かが許せない時

許せない気持ちが自分自身へも

向いてしまうのだろう。

 

もう十分に苦しんだんだから

解いて良い。手放していい。

 

今では身の危険を感じることはないけれど

決して過去の出来事は

なかったことではない。

けれど今でも恨んでいるかと言えば

違うしそこに強い執着はない。

 

 

ただ時折り

人の表現、祈りに触れて

自分の心が共鳴する時

 

自分の口からも

「もう大丈夫だよ。」と

その言葉が出かかるのだ。

 

作り物ではなく

本物と言いたくなる心 (表現)に触れて

“何の為に自分は表現を続けているのか?”

問われた気がした。

 

ずっと誰かに言って欲しかった言葉

自分自身もいつか誰かに

言える人になれるだろうか。

 

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