人は何をもって選択や行動を
決定するのだろう。
僕の母親は自分には認識できない誰かと
よく言い争ったり戦ったりしていた。
いわゆる幻聴や妄想と言われるもので、
それは僕が幼少期の頃からあった。
母が僕には認識できない誰かと
壁越しにやりとりをしていることは
僕にとっては日常だった。
母がおかしい人だとか
非難したり否定をしたいわけじゃない。
母が知覚する情報のそれらが
母にとっては現実と変わらないことであった
ということが 僕が今ここで言いたいこと。
家に火をつけられてしまう。
自分や子供たちが連れ去られてしまう。
そのような情報は 彼女にとっては
現実味を帯びた臨場感のある情報として
感じられていたということ。
危機感や不安感をひっくるめた臨場感が
彼女にとっては日常で
現実と変わらないものだったのだと思う。
身の危険と危機感から
交番に駆け込んだり、
隣の家に殴り込みにいこうと
金属の棒を持って
家を飛び出してしまったこともある。
(このことに関しては
人を巻き込む前に未然に止められたが)
臨場感は人を行動へと駆り立てる。
映画によくある
車での派手なアクションシーン
飛び散るガラスの破片
静寂に響きわたる銃声に 誰かが叫ぶ声
臨場感のある場面は何かと激しい。
それがフィクションであっても
ドキドキしたり思わず目を閉じたり
自分自身も現実と変わらない反応を
してしまうことがある。
想像の世界も臨場感が強いと
現実の世界と境目がなくなっていくの
かもしれない。
不安や恐れは人を行動へと駆り立てやすい。
危機的な状況は特に
臨場感をもって想像しやすいからだと思う。
不安を煽って
利用する人もいる。
人の欲を駆り立てること
それも臨場感に繋がってる。
例えば食べ物の広告なんかも
五感を刺激してそれを味わったら
どんな臨場感か疑似的に想像させてくれる。
いかに臨場感をもって
想像できてしまうかで
僕らは行動へと促されてしまう。
勢いがあるもの、刺激が強いものは
臨場感を強めやすい。
でもきっとこの世界には
あたたかくて優しい臨場感や
ゆっくりだけど力強い臨場感だって
あるのだと思うのです。
これを渡したら
あの子は喜んでくれるかな?
そんなことを考えながら選ぶプレゼント。
植えた植物の種が
時間をかけて大きくなること。
その場により添う時間の厚みを
想像する臨場感。
僕らの想像は過去にも未来にも
行くことができる。
臨場感を通して
想像できることが
創造することに繋がるのであれば
不安や恐れで
想像、創造する世界ではなく
愛をもって想像、創造できたなら
どんな世界を創造できるか
具体的に想像してみたい。
明日を想像する。
臨場感をもって想像する。
過去によって道が決まるのではなく
どんな臨場感で未来を感じられるか
道は心に聞いてみる。
自分自身が絵を描くという生き方に
どんな意味があるのかずっと考えている。
観る人によっては
意味なんてないのかもしれない。
人によって大事なことは違う。
それでもきっと描き続けていたら
その時々で自分自身がどんな臨場感をもって
何を見つめていたのか
自分自身に気付かせてくれる。
大丈夫だってそう思える世界
いつか自分にも創造できたらな。