池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

我逢人

関係の結び目とタイトルをつけた

今回で11回目となる個展も

7月の15日に最終日を迎えることができました。

 

いらしていただいた方

お話をしてくださって自分にヒントや気づきを下さった方

見ていてほっこりするようなお花を送って下さった方

元気が出る差し入れを贈って下さった方

このような機会を与えて下さった方

今回は来れないけれど気にかけて下さった方もいます。

 

本当にたくさんの方に支えてもらいながら

続けられている活動であることをしみじみ思いました。

 

我 人に逢う

と書いて我逢人(がほうじん)という

自分の好きな禅語があります。

 

参加して頂いた人の数だけ

登場人物が増えていく絵を

今回来て頂いた方のお力をお借りしながら

制作させていただきました。

 

※ こちらが設けた決まりをもとに

顔に当たる部分(意志にあたる部分)

を参加者の方に描いてもらいました。

描いて頂いた意思や魂の部分を感じ取りながら

僕の方で今回身体の部分は描き足させていただきました。

 

最終日を迎えての 我逢人↓

我逢人

 

自分自身

いままで絵を描くことで救われてきました。

 

その感謝を絵に込めていくこと。

それが自分にできること。

 

きていただいた方達から

大事なことを教わりました。

 

本当に本当にありがとうございます。

自分一人では描けなかった絵です。本当にありがとうございます。

 

 

サークル

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今回思い入れのある作品を

トートバッグにしました。

 

元の作品の技法はスクラッチ

アクリル板を削って描きました。

 

後ろから光を当てて

光で絵が浮かび上がる作品です。

 

今はもう手元にありませんが

思っていたことを文章にしたので

リンクを貼っておきます。

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https://www.instagram.com/p/C9RGk1vSG-4/?igsh=MWVnengyeDA5cHJxaQ==

臨場感で創造される世界

人は何をもって選択や行動を

決定するのだろう。

 

 

 

僕の母親は自分には認識できない誰かと

よく言い争ったり戦ったりしていた。

 

いわゆる幻聴や妄想と言われるもので、

それは僕が幼少期の頃からあった。

母が僕には認識できない誰かと

壁越しにやりとりをしていることは

僕にとっては日常だった。

 

母がおかしい人だとか

非難したり否定をしたいわけじゃない。

 

母が知覚する情報のそれらが

母にとっては現実と変わらないことであった

ということが 僕が今ここで言いたいこと。

 

家に火をつけられてしまう。

自分や子供たちが連れ去られてしまう。

そのような情報は 彼女にとっては

現実味を帯びた臨場感のある情報として

感じられていたということ。

 

危機感や不安感をひっくるめた臨場感が

彼女にとっては日常で

現実と変わらないものだったのだと思う。

 

身の危険と危機感から

交番に駆け込んだり、

隣の家に殴り込みにいこうと

金属の棒を持って

家を飛び出してしまったこともある。

(このことに関しては

人を巻き込む前に未然に止められたが)

臨場感は人を行動へと駆り立てる。

 

 

映画によくある

車での派手なアクションシーン

飛び散るガラスの破片

静寂に響きわたる銃声に 誰かが叫ぶ声

臨場感のある場面は何かと激しい。

それがフィクションであっても

ドキドキしたり思わず目を閉じたり

自分自身も現実と変わらない反応を

してしまうことがある。

 

想像の世界も臨場感が強いと

現実の世界と境目がなくなっていくの

かもしれない。

 

 

不安や恐れは人を行動へと駆り立てやすい。

危機的な状況は特に

臨場感をもって想像しやすいからだと思う。

 

不安を煽って

利用する人もいる。

 

人の欲を駆り立てること

それも臨場感に繋がってる。

 

例えば食べ物の広告なんかも

五感を刺激してそれを味わったら

どんな臨場感か疑似的に想像させてくれる。

 

いかに臨場感をもって

想像できてしまうかで

僕らは行動へと促されてしまう。

 

勢いがあるもの、刺激が強いものは

臨場感を強めやすい。

 

 

でもきっとこの世界には

あたたかくて優しい臨場感や

ゆっくりだけど力強い臨場感だって

あるのだと思うのです。

 

これを渡したら

あの子は喜んでくれるかな?

そんなことを考えながら選ぶプレゼント。

 

植えた植物の種が

時間をかけて大きくなること。

その場により添う時間の厚みを

想像する臨場感。

 

僕らの想像は過去にも未来にも

行くことができる。

 

 

臨場感を通して

想像できることが

創造することに繋がるのであれば

 

不安や恐れで

想像、創造する世界ではなく

 

愛をもって想像、創造できたなら

どんな世界を創造できるか

具体的に想像してみたい。

 

明日を想像する。

臨場感をもって想像する。

 

過去によって道が決まるのではなく

どんな臨場感で未来を感じられるか

道は心に聞いてみる。

 

 

自分自身が絵を描くという生き方に

どんな意味があるのかずっと考えている。

 

観る人によっては

意味なんてないのかもしれない。

 

人によって大事なことは違う。

 

それでもきっと描き続けていたら

その時々で自分自身がどんな臨場感をもって

何を見つめていたのか

自分自身に気付かせてくれる。

 

大丈夫だってそう思える世界

いつか自分にも創造できたらな。

自分を信じる力

電車に乗りながら

(明確な理由があるわけではないのだけれど)

このままだと過呼吸になるな

という予感が出てきたことがあって

その不安がよりスイッチとなって危なくなって

抗うように意識的に深呼吸をしたことがある。

 

呼吸を整えることで

副交感神経が優位になるとか

そういった専門的な理由で落ち着くことも

あるのかもわからないけれど

 

吸って 吐いて

吸って 吐いて...
言語化 意識したことを繰り返し

そのまま行動でなぞることによって

意識してることと行動が一致してる。

自分のことをコントロールできてる。

そんな感覚になれた瞬間があったことを

覚えてる。

 

過去の失敗を振り返ったり

未来への不安でいっぱいになったり

心が落ち着かない時

どうしても自分では

コントロールできないことばかりに

意識が向いてしまっている。

 

自分にできることはなんだろう?

最近は自分へそんな問いかけをしてみる。

 

できることしかやらなかったら

いつまで経ってもできることしかできないよ。

そんなふうに思う人も

いるのかも分からないけれど、

 

できることを見つけて行動していくことは

等身大の自分が最大限にできる

前進なんじゃないだろうか。

 

できることの行動の繰り返しの先に

新たに導き出せる答えがきっとある。

 

自分にできることはなんだろう?

 

その問いの繰り返しは

自分との対話であって

想像したことと自分自身が一致していく

練習でもある。

 

自分にできることはなんだろう?

 

もしそれができたら

どんな気分になれるだろう。

 

想像をしてみるよ。

行動をしてみるよ。

 

自分にできることをコツコツと。

いずれ自分を信じる力に

変えていけますように。

 

 

大丈夫。だとそう言える日に。

大声で泣く子どもの手を引いて

「大丈夫だよ。」

 

一生懸命に励ました。

 

君が泣きながらも

前に歩みを進めていることが

いかに尊いか。

 

言葉では諭すことはないけれど

「大丈夫だよ。(君が気にして泣いていること

以上に君はすでに凄いんだよ。)」

 

そんな想いを心いっぱいに込めて

背中を押した。

(心の中で呟く「頑張れ。」)

 

 

誕生日の朝にみた夢の話です。

今日、私は33歳になりました。

 

小さな子供はなんだか

幼い頃の弟にも似ていました。

自分自身でもあったのかもしれません。

 

大丈夫?って大人や友達に聞かれるのが

嫌いな子供でした。

 

大丈夫じゃなくても

大丈夫じゃない。とは

口が裂けても言えなかったから。

 

大丈夫じゃないのに。

「大丈夫です。」

と相手の期待に応えるための返事は

相手にも自分自身にも

嘘をつくことになるので嫌いでした。

 

大丈夫?と聞くのではなく

「大丈夫だよ。」

そう一言 心にお守りが欲しかった。

 

子どもの頃

言って欲しかった安心の言葉

いつか自分自身が

手渡せる大人になれたら。

そんなことを考えながら生きています。

 

今でもきっと

泣きながら歩いた道の延長線を歩いてる。

 

33歳の誕生日は

泣きながらも歩いていた子どもに

「大丈夫。(それでもここまで来たんだよ。これからも前に進め)」と

そう諭された日でもあったように思います。

調和する世界

快と不快

感覚的なことは

自分の中でのひとつの答えではないかと

思うのです。

 

“心地よさ”をひとつ

行動の指針においてみる。

 

掃除をするとする前の状況より

好ましい状況になるわけで

 

お掃除が修行と扱われるのは

行動を伴って良い選択をする練習なのかもと

自分自身 掃除をしながら

ハッとしたことがあります。

 

心地よさを追求していくことは

自分の感覚と向き合う

ということなのだと思います。

 

快と不快

時に好みの味 刺激や ご褒美などを

自分自身に与えることで

自分の機嫌を取るなんて日もあるでしょう。

 

快を求めて食べ過ぎれば

快を通り越して苦しさが

感覚として現れます。

 

ご褒美が

時に問題から目を逸らすために

使われることもあるかもしれません。

 

心地よさだと思ってるものを

ちゃんと感覚を通して

心地よいものなのか向き合ってみる。

 

本当の気持ちを

抑圧したり、無視したり

他人にされて嫌なことを

自分自身にしてはいないか?

 

苦しみや悲しみを伴っても

そこに理解があると

安らぎや信頼に変わることがある。

 

握りしめていたものを手放して

思わず肩の力が抜けてしまう。

そんな日があっても良いのだと思います。

 

心地よさと

一致していくということは

自分自身と調和していくということでは

ないでしょうか。

 

 

ひとりひとりが

穏やかな心地よさを感じながら

生きていけますように。