ただいま。
やっと文章を書けるようになりました。
更新をしたいと思いながら
それができない日が続いておりました。
やっと今
大事なものと繋がることができた感覚でいます。
自分の身体なのに 自分の意識なのに
主導権が自分にない感覚がずっと続いていました。
焦りがありました。
頑張らないと、どうにかしないと。
たくさん調べ物もしました。
方法も答えもたくさん探しました。
たくさん迷って、たくさん考えました。
明日が来ることが怖かったです。
今を生きられていない感覚がずっとありました。
その間 上手くできない自分のことを
たくさん責めました。
このままではこれから先ヤバいと
未来の自分に対して
絶望のような気持ちもありました。
過去の失敗が 過去の傷が肥大化した恐れとなって
人と関わることが怖くなってしまいました。
自分には現実を動かす力はないと
積み重ねた失敗によって学習してしまった無力感がありました。
助けを求めていたはずなのに
自分のために届けてくれる言葉や正しいことさえも
自分を責め立てているように感じられて
言葉や思いと共に届けてくれた優しさや
差し伸べられた手さえも素直に受け取ることができない
自分がいました。
消えてしまいたい。死んでしまいたい。
何度も思いました。
自分で自分を傷つけた日もありました。
自分に足りないものを考え続けて
それさえ埋めることができたなら...。
今よりも現状が上手く回るのでは...。
頑張ろうとすればするほど
不足感ばかりを強化する日々でした。
おそらく私は今年に入ってからの大半を
頭の中のバーチャルな妄想とか幻聴といった
世界の中をずっと行き来していました。
今思うとこれらはどれも自動思考で
思考の癖になっているということに
最近ハッとしました。
大事なことだから考え続ける価値があると
ずっと思い込んでいました。
執着というやつです。
考えて辛い気分になることを考えしまう時は
スパッとその思考から離れる...
それができるようになりました。
(つい最近まではそれが最善なことだとは
考えもしなかったけど
非常に効果的なことでした。
複数起動しているアプリを落としていくこと
と同じかもしれません。)
また考えてる...と自動思考に気づいたら
考えることの深みにハマっていくのではなく
感じることに意識をシフトする。
それも感情とか
言語化しやすことよりも
言語化が難しいことをあえてそのまま感じてみる。
どういうことかといえば
それは自分の五感と意識的に繋がるということです。
自分を取り戻す感覚は
身体感覚を取り戻すことでもありました。
自分に当たる風の感触
季節の匂い
呼吸する時のお腹の膨らみ。
手のぬくみ。
なるべく言葉ではない
デジタルでない情報を
何かに置き換えずにそのまま感じてみる。
腹式呼吸を実践するようにしてから
意識を頭からお腹の方へ持って来ることが
できるようになってきた気がします。
腹落ちするというか
下の方へおろしていくと
不思議な安心感があります。
今は自分の身体も
自分のものというよりは
複数の命の集まりのような感覚で
少しずつ感謝や愛情を向けることができるようになってきました。
この身体も生きている間の借り物ならば
いつかは返すものだから
もっと大事に使いたい。
思考の世界で生きていた時は
「できの悪い お前なんか嫌いだ。」って
条件をつけた世界での⚪︎×のジャッジで
自分は自分のことをイジメ続けてきました。
感じる世界に移行し始めてからは
この細胞ひとつひとつに
この命の集まりに
どんな経験 どんな想いや
エネルギー状態にしてあげられるだろうか
そんな視点で
いい意味での距離が生まれました。
美しい景色を見て感動したり
鳥肌が立つような高揚があるのは
きっと感じることが 自分が世界と繋がることであり
細胞レベルでの喜びがあることなのだと思います。
もっと
もっとと
力んでいた頃にはなかった
余白が自分にとって必要な答えでした。
そして精神的なことだけでなく
この身体感覚に耳を傾けることが
大事なことの答えへと繋がっている。
そんな確信もありました。
その先にはちゃんと人にも繋がっていけそうです。
空いたスペースには
大事なものがちゃんと入ってきます。
新作 作り始めています。
大丈夫。
感じることができるということが
すでに“ある”ということなのだから。