池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

臨場感で創造される世界

人は何をもって選択や行動を

決定するのだろう。

 

 

 

僕の母親は自分には認識できない誰かと

よく言い争ったり戦ったりしていた。

 

いわゆる幻聴や妄想と言われるもので、

それは僕が幼少期の頃からあった。

母が僕には認識できない誰かと

壁越しにやりとりをしていることは

僕にとっては日常だった。

 

母がおかしい人だとか

非難したり否定をしたいわけじゃない。

 

母が知覚する情報のそれらが

母にとっては現実と変わらないことであった

ということが 僕が今ここで言いたいこと。

 

家に火をつけられてしまう。

自分や子供たちが連れ去られてしまう。

そのような情報は 彼女にとっては

現実味を帯びた臨場感のある情報として

感じられていたということ。

 

危機感や不安感をひっくるめた臨場感が

彼女にとっては日常で

現実と変わらないものだったのだと思う。

 

身の危険と危機感から

交番に駆け込んだり、

隣の家に殴り込みにいこうと

金属の棒を持って

家を飛び出してしまったこともある。

(このことに関しては

人を巻き込む前に未然に止められたが)

臨場感は人を行動へと駆り立てる。

 

 

映画によくある

車での派手なアクションシーン

飛び散るガラスの破片

静寂に響きわたる銃声に 誰かが叫ぶ声

臨場感のある場面は何かと激しい。

それがフィクションであっても

ドキドキしたり思わず目を閉じたり

自分自身も現実と変わらない反応を

してしまうことがある。

 

想像の世界も臨場感が強いと

現実の世界と境目がなくなっていくの

かもしれない。

 

 

不安や恐れは人を行動へと駆り立てやすい。

危機的な状況は特に

臨場感をもって想像しやすいからだと思う。

 

不安を煽って

利用する人もいる。

 

人の欲を駆り立てること

それも臨場感に繋がってる。

 

例えば食べ物の広告なんかも

五感を刺激してそれを味わったら

どんな臨場感か疑似的に想像させてくれる。

 

いかに臨場感をもって

想像できてしまうかで

僕らは行動へと促されてしまう。

 

勢いがあるもの、刺激が強いものは

臨場感を強めやすい。

 

 

でもきっとこの世界には

あたたかくて優しい臨場感や

ゆっくりだけど力強い臨場感だって

あるのだと思うのです。

 

これを渡したら

あの子は喜んでくれるかな?

そんなことを考えながら選ぶプレゼント。

 

植えた植物の種が

時間をかけて大きくなること。

その場により添う時間の厚みを

想像する臨場感。

 

僕らの想像は過去にも未来にも

行くことができる。

 

 

臨場感を通して

想像できることが

創造することに繋がるのであれば

 

不安や恐れで

想像、創造する世界ではなく

 

愛をもって想像、創造できたなら

どんな世界を創造できるか

具体的に想像してみたい。

 

明日を想像する。

臨場感をもって想像する。

 

過去によって道が決まるのではなく

どんな臨場感で未来を感じられるか

道は心に聞いてみる。

 

 

自分自身が絵を描くという生き方に

どんな意味があるのかずっと考えている。

 

観る人によっては

意味なんてないのかもしれない。

 

人によって大事なことは違う。

 

それでもきっと描き続けていたら

その時々で自分自身がどんな臨場感をもって

何を見つめていたのか

自分自身に気付かせてくれる。

 

大丈夫だってそう思える世界

いつか自分にも創造できたらな。

自分を信じる力

電車に乗りながら

(明確な理由があるわけではないのだけれど)

このままだと過呼吸になるな

という予感が出てきたことがあって

その不安がよりスイッチとなって危なくなって

抗うように意識的に深呼吸をしたことがある。

 

呼吸を整えることで

副交感神経が優位になるとか

そういった専門的な理由で落ち着くことも

あるのかもわからないけれど

 

吸って 吐いて

吸って 吐いて...
言語化 意識したことを繰り返し

そのまま行動でなぞることによって

意識してることと行動が一致してる。

自分のことをコントロールできてる。

そんな感覚になれた瞬間があったことを

覚えてる。

 

過去の失敗を振り返ったり

未来への不安でいっぱいになったり

心が落ち着かない時

どうしても自分では

コントロールできないことばかりに

意識が向いてしまっている。

 

自分にできることはなんだろう?

最近は自分へそんな問いかけをしてみる。

 

できることしかやらなかったら

いつまで経ってもできることしかできないよ。

そんなふうに思う人も

いるのかも分からないけれど、

 

できることを見つけて行動していくことは

等身大の自分が最大限にできる

前進なんじゃないだろうか。

 

できることの行動の繰り返しの先に

新たに導き出せる答えがきっとある。

 

自分にできることはなんだろう?

 

その問いの繰り返しは

自分との対話であって

想像したことと自分自身が一致していく

練習でもある。

 

自分にできることはなんだろう?

 

もしそれができたら

どんな気分になれるだろう。

 

想像をしてみるよ。

行動をしてみるよ。

 

自分にできることをコツコツと。

いずれ自分を信じる力に

変えていけますように。

 

 

大丈夫。だとそう言える日に。

大声で泣く子どもの手を引いて

「大丈夫だよ。」

 

一生懸命に励ました。

 

君が泣きながらも

前に歩みを進めていることが

いかに尊いか。

 

言葉では諭すことはないけれど

「大丈夫だよ。(君が気にして泣いていること

以上に君はすでに凄いんだよ。)」

 

そんな想いを心いっぱいに込めて

背中を押した。

(心の中で呟く「頑張れ。」)

 

 

誕生日の朝にみた夢の話です。

今日、私は33歳になりました。

 

小さな子供はなんだか

幼い頃の弟にも似ていました。

自分自身でもあったのかもしれません。

 

大丈夫?って大人や友達に聞かれるのが

嫌いな子供でした。

 

大丈夫じゃなくても

大丈夫じゃない。とは

口が裂けても言えなかったから。

 

大丈夫じゃないのに。

「大丈夫です。」

と相手の期待に応えるための返事は

相手にも自分自身にも

嘘をつくことになるので嫌いでした。

 

大丈夫?と聞くのではなく

「大丈夫だよ。」

そう一言 心にお守りが欲しかった。

 

子どもの頃

言って欲しかった安心の言葉

いつか自分自身が

手渡せる大人になれたら。

そんなことを考えながら生きています。

 

今でもきっと

泣きながら歩いた道の延長線を歩いてる。

 

33歳の誕生日は

泣きながらも歩いていた子どもに

「大丈夫。(それでもここまで来たんだよ。これからも前に進め)」と

そう諭された日でもあったように思います。

調和する世界

快と不快

感覚的なことは

自分の中でのひとつの答えではないかと

思うのです。

 

“心地よさ”をひとつ

行動の指針においてみる。

 

掃除をするとする前の状況より

好ましい状況になるわけで

 

お掃除が修行と扱われるのは

行動を伴って良い選択をする練習なのかもと

自分自身 掃除をしながら

ハッとしたことがあります。

 

心地よさを追求していくことは

自分の感覚と向き合う

ということなのだと思います。

 

快と不快

時に好みの味 刺激や ご褒美などを

自分自身に与えることで

自分の機嫌を取るなんて日もあるでしょう。

 

快を求めて食べ過ぎれば

快を通り越して苦しさが

感覚として現れます。

 

ご褒美が

時に問題から目を逸らすために

使われることもあるかもしれません。

 

心地よさだと思ってるものを

ちゃんと感覚を通して

心地よいものなのか向き合ってみる。

 

本当の気持ちを

抑圧したり、無視したり

他人にされて嫌なことを

自分自身にしてはいないか?

 

苦しみや悲しみを伴っても

そこに理解があると

安らぎや信頼に変わることがある。

 

握りしめていたものを手放して

思わず肩の力が抜けてしまう。

そんな日があっても良いのだと思います。

 

心地よさと

一致していくということは

自分自身と調和していくということでは

ないでしょうか。

 

 

ひとりひとりが

穏やかな心地よさを感じながら

生きていけますように。

スペース

何に意識を向けるかはとても大切なこと。

 

大切なことを目を逸らさずに生きられたら

そんなことを思う日もありました。

 

 

自分にとって意味があること

価値があることに

アンテナを張るのは大切なことです。

 

ただその大切だと思うことを

握り締め続けているが故に

取りこぼしてしまっている

豊かさもあるということに

最近気がつきました。

 

握り締めていることが当たり前に

なりすぎてしまっている時

自分ではプラスだと思っていても

それは大切なものから

執着へと姿を変えているかもしれません。

 

大切だと思いながらも

一旦横に置いてみる

手放してみる

本当はそんな日があっても良いのです。

 

 

 

一点をただ見続けるような集中(フォーカス)

もあるけれど

 

どこにも意識を留めないことで

広く見渡せるような

フラットな集中もあります。

 

 

最近 静かな環境に身を置いてみて

静けさそのものが

心地良いものだと

あらためてそう思いました。

 

感覚と意識と自分自身と

ちゃんと繋がれている気がしました。

 

 

外側に答えを求めてしまうのは

自分の自信のなさの

表れなのかもしれません。

 

物が捨てられずに

家の中に何でも溜め込んでいる人のことを

パックラットと表現することが

あるそうですが不安が強い人に

そういう傾向があると聞いたことがあります。

 

物や答えで

ひとときの満足感は得られるけれども

足るを知らないと

不安や物足りなさで

すぐに埋もれてしまう。

 

空間や余白もそれそのものが

すでに豊かさなのかもしれません。

 

空間や余白といった

“ない“ものですら”ある“を内包していて

 

空間のことをスペースといい

宇宙を指す言葉としても

スペースという言葉が当てられていることが

本質的にも繋がっているように思えて

なんとも豊かさを物語ってる言葉だと

感じずにはいられません。

 

 

自分を信じると書いて自信

”ない“ことにフォーカスをすると

手に入れること

不安を誤魔化すように

余白を埋めていくことに

一生懸命になってしまうけれど

 

”ある“ものにただただ気づいて

繋がっていく

本当はそれだけで良いのかもしれません。

 

 

繋がっていくことを意識した時

静けさすら豊かさでした。

 

薄味の中の甘さを噛み締めていたい。

鳥のさえずりに耳や心を傾けていたい。

 

新しい季節の風はこの肌に心地良く

今日も空には雲が流れています。

 

未熟な自分のままで 一歩一歩

何度も何度も白紙に戻しては

続けることができなかった

アナログのノートを

最近 書き続けることが

少しずつできるようになってきました。

 

いままではよく

過去に書いたことを見返しては

良い悪いをジャッジして

自己嫌悪に陥っていた記憶があります。

 

ノート一冊取ってみても

ひとつの作品のように

扱っていたのかもしれません。

 

言い換えると

自分の間違えのようなものを

見るのが嫌でした。

 

答えのようなものを

大事にしすぎていたことを思います。

 

今だから思うことは

間違えない生き方より、

間違えを認めて

工夫や改善を試みることの方が

ずっと価値があるということ。

 

 

 

その時その時の正直な自分が

そこに(ノートの中に)あることの方が

価値があるんじゃないかって

今はそんな気持ちでおります。

 

情報って文字の内容だけじゃないですね。

 

正解ではなくて

成長に重きを置くならば

未熟な自分の歴史が

そこに残っててむしろ良いじゃない。

 

とまあ そんな気持ち。

 

 

条件付きだったり 

部分的だったりでない

自分と一致して生きる 生き方を模索中。

 

 

育てていく答え

ずっと答えを見つけようとしていた。

 

気づきがあれば見え方が変わり

突破口が見えるんじゃないかって

今の自分からは見えない視点での

答えをずっと探してた。

 

段々と答えを求める姿勢すらも

なんだか むさぼりのように思えて

インターネットでのインプットを

一時的に遮断してみた。

 

そんなに長い期間ではないのだけれど

静けさの中に身をおいた時

冷静で穏やかになれてる自分に

気づくことができた。

地に足がついた感じ。

 

 

静けさに身をおくと

五感とともに意識という感覚が

ちゃんとはたらいてくれているのがわかった。

 

頭ばかりでの選択ではない生き方。

より自分と繋がっていける道が

ある気がしている。

 

何か選択に迷った時

自分の命(時間)をつかって

自分はこれをしたいかどうか

心に聞いてみる。感覚に聞いてみる。

 

それでも時に

自分と一致しない道に

進んでしまうことはあるのかもしれません。

 

大事なことは

間違えのないことじゃなくて

一歩でも前に進んだ自分を

認めていくということ。

 

行動の結果

「ちょっと違ったな」という経験が

あったとしても、その経験によって

望みがはっきりしていくのなら

きっとそれも必要な経験。

 

裏も表も見ながら

経験の数だけ

より自分と繋がっていけるといい。

 

答え探しは

時に

いざという時の盾のようなもの。

あるいは鎧。

(安心のための武装

裏を返せば 

不安のために身につけるもの)

 

不安の数だけ装備して

自分で自分を重たくする生き方でなく

軽やかでいられるといい。

 

 

 

自分が納得できる答えというものは

経験を伴わせて自分の中で

育てていくものなのかもしれません。