池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

大丈夫

人の心の光と影。

存在するものはみな多面的だ。

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表現とは何か?

本当の事とはなにか?

自分自身に問いかける。

 

人間らしい生き方ってなんだろう。

人間的価値とはなんだろう。

 

大変なこと辛いこと

ネガティブなことは

見ない

あるいは

なかったことにしてしまいたい。

 

それは人の心理なのかもしれない。

 

楽しいこと

良いことばかりに目を向けることは

ポジティブなのかもわからないけれど

 

都合の悪いことに対して

無関心を装うその姿勢は

愛から程遠い。

 

他人に対してもそうだが

自分自身に対しても

してしまってる無関心。

 

開きたくない感情の扉。

今もそこにいる小さな子ども。

 

恐らく今も待っている。

 

「大丈夫?」

そう聞いて欲しいのではなくて

「もう大丈夫だよ。」

そう言ってくれる誰かをずっと待っている。

 

 

唐突に入り口の窓ガラスが割られたあの日

入り口は逃げ道としては塞がれ

そこから逃げるには

5階のベランダから

飛び降りるしか選択肢はないと思った。

だけど怖くて出来なかった。

 

「誰か助けて下さい。」

喉が潰れる程に

外に向かって大声で叫び続けたけれど

見ず知らずの自分達を

助けに来てくれる人は誰もいなかった。

 

怖くて逃げられなかった自分。

立ち向かっても傷つくばかり。

 

結局、警察のお世話になった。

 

その場しのぎの解決しか見いだせず

自分の力で何も変えられないことが

ただただ悔しかったことを覚えてる。

 

暴力に対して暴力で立ち向かっても

終わらない戦い。

自分の正しさを押し付け合う

その渦の中にいたら終着地点は

誰かがが死ぬまで続いたと思う。

 

白黒つけることが

自分の正義だと思ってた10代。

 

自分の正しさを押し付ける以外の

正しさを探した20代。

 

30になった今でも許せない線引きはある。

 

けれども許せないことは

自分自身をもその対象に縛りつけてしまう。

 

許せないことまで許す

というのはなかなかできることではない。

 

けれど人はひとつひとつ

許すことを考え経験しながら

物事を多面的に見ることを

学んでいく。

 

何故 人は何かが許せない時

許せない気持ちが自分自身へも

向いてしまうのだろう。

 

もう十分に苦しんだんだから

解いて良い。手放していい。

 

今では身の危険を感じることはないけれど

決して過去の出来事は

なかったことではない。

けれど今でも恨んでいるかと言えば

違うしそこに強い執着はない。

 

 

ただ時折り

人の表現、祈りに触れて

自分の心が共鳴する時

 

自分の口からも

「もう大丈夫だよ。」と

その言葉が出かかるのだ。

 

作り物ではなく

本物と言いたくなる心 (表現)に触れて

“何の為に自分は表現を続けているのか?”

問われた気がした。

 

ずっと誰かに言って欲しかった言葉

自分自身もいつか誰かに

言える人になれるだろうか。

 

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