池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

無尽蔵

近所のお風呂さんにて

お湯に浸かりながら

段々と自分が空っぽになっていくのを

感じてた。

 

身体の大きな人がお湯から出ては

波が起きて自分の身体が揺れた。

 

突然の勢いに

抗うでもなく

ゆらゆら

 

熱いお湯に

凝り固まった思考も段々と溶け出して

なんだか波と同化したような感覚で

ゆらゆら

 

視界が揺れて 意識が揺れて

思考が定まらなくなっては

自意識を見失いそうになる。

 

でもなんだかそれが心地が良い。

 

このまま溶け出してしまうなら

それはそれでいい。

 

肩の力が抜けて

段々と色んなものの

差がなくなっていく。

 

あぁやっぱり

余計なことはいらないんだ。

 

力めば力むほどに

見えなくなっていった世界と

しばらくぶりに繋がれた気がした。

 

いいお湯に浸かっていただけ。

薄れていく意識に星空が広がった気がした。

 

自分の中にも

宇宙は繋がっているのかもしれない。

 

自分を脱ぎ捨てても自分は自分。

けれど

自分は自分でなくとも良いのかもしれない。

 

しがみつかなくとも流れの中。

ぼこぼこと湧き上がっては

消えていく泡を

ただただ見つめては

感じてた。

 

当たり前のように

当たり前のことが目の前で起こってる。

自分の思考がいくらそれに抗っても

そのルールや理に干渉してしまうことはない。

 

何か絶対的なものの前では

思考はあくまで思考でしかなく

風呂屋さんの湯船に真実を見た気がした。

 

ものや存在に価値があるように

余白や空間にも価値がある。

 

泡がぼこぼこと

波となっては

湯気が立ち

カタチを変えながらも

なくなってはいない

 

何もないことの本質を見てみたい。

 

思考も

私自身も

環境も 

隔たりなど超えて

繋がっているように思えてならないのだ。

 

日々を味わう

気持ち良さを感じる時

心地良さに気づいた時

自然と湧いてきた気持ちが

感謝だと気づいてハッとする。

 

心地良さに感覚を向けて生きることは

自分が受けている恩恵に意識を向けて

感謝をして生きる道なのかもしれない。

 

快 不快

あるいはどちらでもない心境

生きているといろんな事がありましょう。

 

不快な気持ちを通して

ありがたみに気づく日もあります。

 

快も不快もどちらもちゃんと味わうことが

豊かさなんだと思うようになりました。

 

どちらでもない時も大切で、

何も食べていない時間も

美味しいやありがたみを感じるひとときには

必要だと思うのです。

 

食べ物だけでなく

身の回りの心地良さをしっかり味わうこと。

 

仕事のことや日常のこと

食事の時まで別のところに

意識が飛んではいないだろうか。

 

今食べていたもの、

気がついたら無くなっていた。

(無意識に食べてしまっていた。)

そんな日々では味気ない。

 

意識を向けて噛み締める。

香りを。食感を。調和を。今この瞬間を。

 

そうしてちゃんと味わうことに

意識を向けた時に初めて気づく“味”があって

そして“意味”があるように思うのです。

 

欲望に応え続ける 

貪りの先の満足は儚いものです。

 

高価なものが豊かなのではなく

豊かさに気づけること

ちゃんと味わうゆとりが

豊かさなのかもしれません。

歩み寄り

椅子に腰掛け

コーヒーを飲み

ボーッとする。

 

自分が自分に戻れる時間があると

地に足が着いてホッとする。

 

心地良い音楽を味わえたら

なお幸せ。

 

今ある豊かさを味わえる事

感じる心が

幸せじゃなかろうか。

 

貪りに偏ってる時は

ないものや不満を数えてる。

 

頭の中が忙しいと

自分がいつしか置いてけぼりで

時間ばかりが過ぎていく。

 

ひとつに集中して

終わったら次の集中。

 

紙に書いて

終わったら線を引く。

そしてまた次の集中。

 

できることを淡々と。

集中を一点に絞ると実は満たされる。

 

あれもこれもと考えると目が回る。

シンプルは心地が良い。

 

心地良さ

淹れたてのコーヒー

 

風が運んでくる季節のにおい

 

ぽかぽかした日差しの肌触り

 

揺れる草木の囁き

 

鳥の歌が聞こえてくる

 

五感を通して心を寄せれば

たくさんの豊かさ

 

辛い時だって

そんな時だから

染み入る詩や歌がある。

 

自分なりの

心地良さや幸せを感じる心があれば

何があっても大丈夫。

 

心地良さが

教えてくれる道もある気がしてる。

 

心のコンパス

私は私を肯定する。

 

そう言葉にした時 少し涙が溢れた。

体と心が反応した。

 

価値があるとかないとか

優れているとか劣っているとか

日々さまざまな判断をしながら人は生きている。

 

無意識のうちに自分自身を否定しながら

生きてきた自分に気づく。

 

自分で自分を否定しても生まれるのは苦しみ。

 

苦しみが先か

否定の言葉が先か

 

自分を責めてしまう時、悲観してしまう時

私は妄想に囚われている。

 

そんな自分に気づくことができたなら

心を鎮め 妄想を振り払いながら

生きることもできるだろうか。

 

私は私を肯定する。

 

どの方向を見て生きるかを

人は選べるのだと思う。

 

心によりどころがあると良い。

 

自分の人生を信頼する

そんな生き方に想いを馳せる。

自分の真ん中

できるだけ

良いエネルギーで

良い方向へ進まなきゃ。

 

良い側面を見て

できるだけ良い解釈をして

より良い自分を生きる。

 

そんなことを考えていたこともあった。

 

より良い自分を目指せばいずれ近づける。

そんな期待があった気がする。

 

都合の悪いことには目を背けて

偏った物事の見方をしてしまうことは

危ういことなのかもしれない。

 

 

自己肯定感とか

そんな言葉を目にすることが

増えたけれど

条件付きの肯定には強い否定が

中合わせをしているかもしれない。

 

自己肯定感を高めようとした結果

分離感を強めてしまう人もいるのだろう。

 

肯定するためにつけた仮面の下で

本心がどんな表情をしているか想像する。

 

ポジティブはポジティブで

良いのだけど

無理をして保たれる自分を

標準にしてしまうとどこか息苦しい。

 

より良い仮面を被るのではなく

仮面の下の自分に歩みよること。

 

それは癒しであり

受け入れるということ。

存在を認めるということ。

肯定するということ。

 

ペルソナが必要だった自分も含めて

自分なのだ。

「こんな自分は本当の自分じゃない。」

本当にそうだろうか。

 

仮面が悪いわけでもない。

自分が自分らしくいるために

仮面が必要なこともある。

 

最近は

より良い状態より

普通の状態をより意識し始めた。

 

戻れる

還れる

中心があるということは

安心を与えてくれる。

 

 

良いだけの人生はないし

悪いだけの人生もない。

 

より良いが基準ではなく

自分の真ん中を軸にして生きる。

 

期待の向こう側だけに

本当の自分がいるわけではないのだから。

ニュートラルな物差し

風が吹いて葉っぱが揺れている。

ただそれだけのことを眺めていただけ。

 

それでも自分の偏っていった思考を

散らすには十分だった。

 

思考に偏りすぎると

自分の物差しも

どんどん偏っていってしまう。

 

だからできるだけ

自然の物差しに自分を合わせていく。

きっとその方がありのままに戻っていける。