快と不快
感覚的なことは
自分の中でのひとつの答えではないかと
思うのです。
“心地よさ”をひとつ
行動の指針においてみる。
掃除をするとする前の状況より
好ましい状況になるわけで
お掃除が修行と扱われるのは
行動を伴って良い選択をする練習なのかもと
自分自身 掃除をしながら
ハッとしたことがあります。
心地よさを追求していくことは
自分の感覚と向き合う
ということなのだと思います。
快と不快
時に好みの味 刺激や ご褒美などを
自分自身に与えることで
自分の機嫌を取るなんて日もあるでしょう。
快を求めて食べ過ぎれば
快を通り越して苦しさが
感覚として現れます。
ご褒美が
時に問題から目を逸らすために
使われることもあるかもしれません。
心地よさだと思ってるものを
ちゃんと感覚を通して
心地よいものなのか向き合ってみる。
本当の気持ちを
抑圧したり、無視したり
他人にされて嫌なことを
自分自身にしてはいないか?
苦しみや悲しみを伴っても
そこに理解があると
安らぎや信頼に変わることがある。
握りしめていたものを手放して
思わず肩の力が抜けてしまう。
そんな日があっても良いのだと思います。
心地よさと
一致していくということは
自分自身と調和していくということでは
ないでしょうか。
ひとりひとりが
穏やかな心地よさを感じながら
生きていけますように。