池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

調和する世界

快と不快

感覚的なことは

自分の中でのひとつの答えではないかと

思うのです。

 

“心地よさ”をひとつ

行動の指針においてみる。

 

掃除をするとする前の状況より

好ましい状況になるわけで

 

お掃除が修行と扱われるのは

行動を伴って良い選択をする練習なのかもと

自分自身 掃除をしながら

ハッとしたことがあります。

 

心地よさを追求していくことは

自分の感覚と向き合う

ということなのだと思います。

 

快と不快

時に好みの味 刺激や ご褒美などを

自分自身に与えることで

自分の機嫌を取るなんて日もあるでしょう。

 

快を求めて食べ過ぎれば

快を通り越して苦しさが

感覚として現れます。

 

ご褒美が

時に問題から目を逸らすために

使われることもあるかもしれません。

 

心地よさだと思ってるものを

ちゃんと感覚を通して

心地よいものなのか向き合ってみる。

 

本当の気持ちを

抑圧したり、無視したり

他人にされて嫌なことを

自分自身にしてはいないか?

 

苦しみや悲しみを伴っても

そこに理解があると

安らぎや信頼に変わることがある。

 

握りしめていたものを手放して

思わず肩の力が抜けてしまう。

そんな日があっても良いのだと思います。

 

心地よさと

一致していくということは

自分自身と調和していくということでは

ないでしょうか。

 

 

ひとりひとりが

穏やかな心地よさを感じながら

生きていけますように。

スペース

何に意識を向けるかはとても大切なこと。

 

大切なことを目を逸らさずに生きられたら

そんなことを思う日もありました。

 

 

自分にとって意味があること

価値があることに

アンテナを張るのは大切なことです。

 

ただその大切だと思うことを

握り締め続けているが故に

取りこぼしてしまっている

豊かさもあるということに

最近気がつきました。

 

握り締めていることが当たり前に

なりすぎてしまっている時

自分ではプラスだと思っていても

それは大切なものから

執着へと姿を変えているかもしれません。

 

大切だと思いながらも

一旦横に置いてみる

手放してみる

本当はそんな日があっても良いのです。

 

 

 

一点をただ見続けるような集中(フォーカス)

もあるけれど

 

どこにも意識を留めないことで

広く見渡せるような

フラットな集中もあります。

 

 

最近 静かな環境に身を置いてみて

静けさそのものが

心地良いものだと

あらためてそう思いました。

 

感覚と意識と自分自身と

ちゃんと繋がれている気がしました。

 

 

外側に答えを求めてしまうのは

自分の自信のなさの

表れなのかもしれません。

 

物が捨てられずに

家の中に何でも溜め込んでいる人のことを

パックラットと表現することが

あるそうですが不安が強い人に

そういう傾向があると聞いたことがあります。

 

物や答えで

ひとときの満足感は得られるけれども

足るを知らないと

不安や物足りなさで

すぐに埋もれてしまう。

 

空間や余白もそれそのものが

すでに豊かさなのかもしれません。

 

空間や余白といった

“ない“ものですら”ある“を内包していて

 

空間のことをスペースといい

宇宙を指す言葉としても

スペースという言葉が当てられていることが

本質的にも繋がっているように思えて

なんとも豊かさを物語ってる言葉だと

感じずにはいられません。

 

 

自分を信じると書いて自信

”ない“ことにフォーカスをすると

手に入れること

不安を誤魔化すように

余白を埋めていくことに

一生懸命になってしまうけれど

 

”ある“ものにただただ気づいて

繋がっていく

本当はそれだけで良いのかもしれません。

 

 

繋がっていくことを意識した時

静けさすら豊かさでした。

 

薄味の中の甘さを噛み締めていたい。

鳥のさえずりに耳や心を傾けていたい。

 

新しい季節の風はこの肌に心地良く

今日も空には雲が流れています。

 

未熟な自分のままで 一歩一歩

何度も何度も白紙に戻しては

続けることができなかった

アナログのノートを

最近 書き続けることが

少しずつできるようになってきました。

 

いままではよく

過去に書いたことを見返しては

良い悪いをジャッジして

自己嫌悪に陥っていた記憶があります。

 

ノート一冊取ってみても

ひとつの作品のように

扱っていたのかもしれません。

 

言い換えると

自分の間違えのようなものを

見るのが嫌でした。

 

答えのようなものを

大事にしすぎていたことを思います。

 

今だから思うことは

間違えない生き方より、

間違えを認めて

工夫や改善を試みることの方が

ずっと価値があるということ。

 

 

 

その時その時の正直な自分が

そこに(ノートの中に)あることの方が

価値があるんじゃないかって

今はそんな気持ちでおります。

 

情報って文字の内容だけじゃないですね。

 

正解ではなくて

成長に重きを置くならば

未熟な自分の歴史が

そこに残っててむしろ良いじゃない。

 

とまあ そんな気持ち。

 

 

条件付きだったり 

部分的だったりでない

自分と一致して生きる 生き方を模索中。

 

 

育てていく答え

ずっと答えを見つけようとしていた。

 

気づきがあれば見え方が変わり

突破口が見えるんじゃないかって

今の自分からは見えない視点での

答えをずっと探してた。

 

段々と答えを求める姿勢すらも

なんだか むさぼりのように思えて

インターネットでのインプットを

一時的に遮断してみた。

 

そんなに長い期間ではないのだけれど

静けさの中に身をおいた時

冷静で穏やかになれてる自分に

気づくことができた。

地に足がついた感じ。

 

 

静けさに身をおくと

五感とともに意識という感覚が

ちゃんとはたらいてくれているのがわかった。

 

頭ばかりでの選択ではない生き方。

より自分と繋がっていける道が

ある気がしている。

 

何か選択に迷った時

自分の命(時間)をつかって

自分はこれをしたいかどうか

心に聞いてみる。感覚に聞いてみる。

 

それでも時に

自分と一致しない道に

進んでしまうことはあるのかもしれません。

 

大事なことは

間違えのないことじゃなくて

一歩でも前に進んだ自分を

認めていくということ。

 

行動の結果

「ちょっと違ったな」という経験が

あったとしても、その経験によって

望みがはっきりしていくのなら

きっとそれも必要な経験。

 

裏も表も見ながら

経験の数だけ

より自分と繋がっていけるといい。

 

答え探しは

時に

いざという時の盾のようなもの。

あるいは鎧。

(安心のための武装

裏を返せば 

不安のために身につけるもの)

 

不安の数だけ装備して

自分で自分を重たくする生き方でなく

軽やかでいられるといい。

 

 

 

自分が納得できる答えというものは

経験を伴わせて自分の中で

育てていくものなのかもしれません。

 

 

明珠(明鏡)は掌に在り

この身体さえ

魂が離れるまでの

借り物とするのならば

自分の身体さえも

僕であっても

自分のものではないのかもしれない。

 

そのことと向き合った時

うまくは言えないのだけど、

自分の身体に対してありがとう

という言葉が湧いてきた。

 

”ある“ことすら意識もしないくらいに

当たり前に思ってしまっていることの

“ある”ということのありがたさに気づく時

何も持たずとも

そもそも豊かさに囲まれているということを

あらためて思い知る。

 

ないものばかりみて

不足を嘆きがちだけれど

自由に嘆くことができることも

ひとつの豊かさの証。

 

条件付きではなく

無条件の豊かさをすでに享受してる。

 

今までは

ないものや外にばかり

目を向けてきてしまったけれど

 

これからは自分の中にある

豊かさを大切にすること。

それは感謝とも言えるかもしれません。

 

表現と生き方は繋がっている。

道が見えた気がした。

そのままの自分で 愛ある明日へ

今日は大好きな鉛筆画の作家さん

土田圭介さんの展覧会に行きました。

 

思い返せば自分が

鉛筆画を描き始めたのも

この作家さんがいてくれたからだと

記憶しています。

 

 

陰の部分を見つめる視点は

痛みを抱える人の心に

寄り添うようでもあり

 

描かれた光には希望が込められていて

あたたかさがじんわりと優しく

自分の胸のうちに染み渡るのを感じました。

 

慈悲深く愛情深い方なんだと

作品と合わせて作家さんと

お話をさせて頂きながらも

ほっこりと感じました。

 

この世界には 自分の中にある心や

人の心に寄り添う絵を描く人がいます。

別のある人は丁寧に作った料理を振る舞ったり

また別のある人は相手と目を合わせて

にっこりと微笑んだり..。

 

人それぞれ表現する形は違えど

それぞれのカタチで表現している

人間の本質は愛なのかもしれないと

ふと思いました。

(時にそれは意図されたものばかりでなく

滲み出ているものでもあると思います。)

 

 

この数ヶ月 自分はというと

まんまと感情の波にのまれ

自分の中の肥大化した恐れに

押しつぶされていました。

 

今 思うことは、自分の中にも

愛と呼べるものがあるのならば

今一度そういうエネルギーを

大切する生き方がしたいということ。

 

愛を持って行動したり

人と関わって生きることができるなら

どんな今日をどんな自分を

生きることができるだろう。

 

愛を通して物事をみたら

壁という壁

問題という問題も

別の意味を持つのかもしれません。

 

自分の中にある愛を大切にする生き方と

本質の自分に近づく生き方もまた

同義かもしれません。

 

今日みた鉛筆画の作品もそうでしたが

光と影は表裏一体で

物事の本質はどちらか一方だけでは

ないのだと思います。

 

ついつい

足りないものばかりに

目を向けがちだけれども

不足感を埋めることで

満たされるわけでなく

 

不完全ささえ

人間みだとするのなら

 

例え何か欠けていたり

問題を抱えたままの自分でも

本当は過不足ないのかもしれません。

 

力まないからこそ込められる力が

今はあるような気がしています。

呼吸をするように 循環する世界

人は様々な流れの中にいます。

 

今日も川は流れるし

肌に触れる風は

僕に新しい季節を運んでくる。

 

僕の中にも流れがあって

できれば滞りなく

心地よく巡るといいな思います。

 

人との関わりもまた

エネルギーの循環で

 

与えるばかりでなく

受け取るばかりでなく

巡るといい。

 

お金といったことも

そういうことなのかもしれません。

 

空を見上げると雲が流れています。

 

思考 や 感情 身体のもやもや 滞り

お部屋の中のつまり

気が流れるとはどういうことかを

考える。感じてみる。

 

 

大きな流れの中

抗えないこともありましょう。

 

それでも今日も僕は

吐いて 吸って 息をします。

 

きっと無意識と意識も

循環しているのかもしれません。

 

問題用紙に赤丸をつけるための

答え探しでなく

 

観察の中にある気づきや本当のことに

喜びを感じていたい。