池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

心の向かうところ

昨日は中学生の頃からの

付き合いの友と夜遅くまで

話をした。

 

彼は信念と志を持って生きている。

姿に勢いがあるのだ。

姿に勢いがある人は魅力的だ。

 

彼の生きる姿勢から

学ぶことはいつもたくさんある。

 

相手にとって何が大事か

組織にとって何が大事か

自分にとって何が大事か

様々な角度から物事をみて

 

大事なことをちゃんと

大事にできるように

努力を怠らない。

 

彼との会話の中で

 

自分自身の軸とは?

自分自身の志とは?

自分自身の信念とは?

 

何を描くのか?

どう生きるのか?

それぞれを問うた時

自分はその答えを見失っていた。

自覚はあった。

 

自分自身が大事にしてた

価値観を思い出してる時

 

初個展の時のイメージと

個展に添えた文章の1部が出てきた。

 

 

 

 

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シリーズ:濡れ鼠

タイトル:観客のいない舞台のスポットライト

 

苦しかった事 悲しかった事

今までに 寄り添った痛みが

今日は傍に寄り添う優しさに

変わりますように

 

 

人の辛さ 

人の気持ちに寄り添う表現

生き方がしたかったんだ。

 

過去の自分は

どっちを向いて生きていくのか

向くべき方向を

ちゃんと見つめていた。

 

友とのやりとりを通して

大事なことを思い出した。

 

そいでもって

いくつになっても人は

青春の頃の心に戻れるんだな。

そう感じた。

 

脳裏

何年か前に

バスキアの展覧会に行った時のこと。

 

小さな男の子が1枚の絵の目の前で

じーっとその絵を見ていた。

 

その作品は撮影OKで

そこにいた人達はスマホを取り出して

カシャカシャと音を鳴らしてた。

 

するとお母さん

「邪魔になるからこっち来なさい。」

そう言った。

 

その空間で一番

絵をよく見ていたのは

小さな男の子の方で

 

真剣に絵を観ていた人を邪魔したのは

スマホのカメラを構えてた

大人たちだと僕にはそう思えた。

 

スマホを構えてた大人たちの中に

真剣にその絵を見てた人はいたのだろうか。

 

なんだかなぁ。

 

男の子はその絵を通して

何を見ていたのだろう。

 

1枚の絵をじーっと見つめてた

男の子の集中力を今も時々思い出す。

特別な言葉

“前よりかは自分を

責めなくなったような気がします”

 

元気しているか?

気になって連絡した

弟から届いた

返信。

 

自分を傷つけたり

責めたりする以外にも

自分との向き合い方

見つけたのだろう。

 

自分が

人を励ますつもりが、

気づけば人から励まされている。

 

なんだか最近は

そんなことがたくさんある。

 

悶々と考え続けても

出せなかった答えを

今日は人から手渡された気がする。

 

あぁ。そうだった。

自分にとってそれは大事なものだ。

そんな感覚がした。

 

過去に落としてしまった大事なものを

今日は人に届けてもらった気がした。

 

展覧会をする人 しない人

舞台に立つ人そうじゃない人

そんなこと関係なく

ひとりひとりが生きている限り

何かの表現者なんだと思う。

 

 

表現は特別な人だけのものじゃない。

 

表現をしながら

生きているひとりひとりが

すでに特別だということ。

 

人から受け取った特別を

自分もまた誰かに伝えたい。

 

ああ。

自分はお返しがしたかったんだな。

恐れ入ります。

久しぶりの更新です。

 

今年に入ってからずっと

更新出来ずにおりました。

 

時々でも覗いて下さってた方が

いましたら本当にごめんなさい。

 

一定期間

閲覧できない状態の時も

ありましたが

再出発の意味も込めて更新いたします。

 

年齢を重ねては

今まで無自覚だった

“恐れ”の感情と向き合うことが

多くなりました。

 

その力は強力で

心のブレーキとでも言いますか

無自覚に行動さえも

コントロールしていたりします。

 

「あっまたこのパターンだ。」

気づいていても同じ道を

進んでしまうことがあります。

 

一度立ち止まること。

 

頭で分かっていてなお

同じ道を選んでしまう日があります。

 

感覚的に避けた上での

判断のこともあります。

 

でも人生には時に

この道は怖いな。そう

今まで避けていた道を

進むことが必要なこともあると思うのです。

 

恐れを手放せたら…

そんなことを考えていたこともありますが

 

恐れを持ったまま

そんな自分を受け入れて

生きることも大切なのかもしれません。

 

少しずつですが

えいやー。と

恐れの道を行くことができる日も増えました。

 

あっ。

この道 進んでも大丈夫なんだ。

そんな感覚を覚える日があります。

 

 

何を恐れているのか?

何故恐れているのか?

 

問いかけ続けることで

浮かび上がってくるのは

自分にとっての大切なことかもしれません。

 

人の価値観もまた

行動一つで次々とひっくり返っていく

オセロのような瞬間があります。

 

なんだかその感覚は

歳を重ねていく

楽しみのひとつかもしれません。

 

4月にはまた一つ歳を重ねました。

思いがけず友達が買ってきてくれたケーキ。

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人は時に

先の見えない暗闇を生きていますが、

そこで出会った人の言葉や行動に

思いがけずあたたかさを感じたり

光を感じたり。

 

「先がわからないことは

悪いことばかりじゃないよ。」

 

とモノ言えぬ恐れを抱えていた

過去の自分に言ってあげたい。

 

 

 

最後の日

今日 朝 目が覚めたこと

 

当たり前だと思うことさえ

誰かには叶わなかった今日

 

人との関係の中で

自分との繋がりの中で

その日はいずれやってくる

 

大切な人とのお別れの時を

受話器越しに

僕に話をしてくれた友人を想う

 

ご家族が語りかける言葉に

動けない身体 

言葉を語れない魂から

零れ落ちた涙を想う

 

2021年最後の日

ひとりひとりそれぞれに

色々な想いがあるだろう

 

感謝の気持ち

伝えたかった言葉

伝えきれなかった想い

 

いつまでも明日が続いていく

そんな気がしてしまうけれど

人生は有限なのだ

 

一瞬一瞬

1日と

日々の当たり前が

あまりにも尊い

 

自分も想いのバトンを受け取りながら

生きている

 

自分自身が誰かに

手渡す日もくるだろうか

 

どういう姿勢で

どう生きるか

今一度見つめ直す

 

悲しみも痛みも

生きているからこそ

 

2021年個人的に

死にたい程に辛い日もあったけれど

やはり生きていて良かった

本当にそう

 

自分の気が狂って

大声で喚き散らす日があっても

突き放さず

傍で見守ってくれた友人には

ただただ感謝しかない。

 

自分にできることなんて

あまりにも無力かもしれないけれど

それでも今日を

そして新しい明日を

どう生きるか考えている。

区切り

日々感じたこと

考えたこと

制作のアイデア

日々思いつくことを書き留めておくことは

私の日常でした。

 

きっとこの積み重ねがいつか

私に気づきをくれる。

 

そう信じて

未来の自分に贈り物をしている

感覚でいたのですが、

 

良かれと思って続けていたことが

いつしか私の苦しみになっていると

気づいたことがありました。

 

過去の期待や理想

区切ることなく膨らんだ執着

気がついた時には

私は身動きが取れなくなっておりました。

 

 

 

 

世の中には色んなグループが存在します。

何を基準にどう分けるか。

 

後々のことを考えて

方向性を見据えることが

大事な視点だと思います。

 

似たような性質を持つ仲間や

全く違った特徴を持つ情報もあれば

そのもの単体が教えてくれること

何かとの関係で

物事の本質が浮かび上がるものもあります。

 

情報やものを活かすためには

仕分けた先にどんな未来を望むのか?

 

ものや情報の性質だけでなく

管理をする人の気持ちや

何を望むのかという視点が

抜け落ちてしまうと

仕分けた先で“活かす”という目的が

うまく機能しなくなってしまいます。

 

 

 

私は書くことや

人の話を聞くことが好きで

いわゆるメモ魔でありました。

 

段々とメモが溜まってきた辺りから

内容ごとに分けたい。

 

そんな欲が出てきて

それを実行する様になってから

私の場合は管理が破綻していきました。

 

内容ごとに分けて

時に重要かどうかを判断をし

いらない情報を引き算して行く。

 

洗練させていった情報の上に

新しい情報が入ってくる

カテゴリーが増えるほどに

管理する幅も増え作業が追いつかなくなってくる。

 

結果として私は

イデアや情報を書き留めるということが

非常に億劫になってしまいました。

 

完成させた(作業を終えたカテゴリーが)

また“要作業”に変わる。

 

先の先を見た時

このままではどこにも辿り着けない。

終わらない。

そんな道を歩いてることに気がつきました。

 

良かれと思ってやっていたことではありますが

贈り物ではなく

自分自身がやり残したツケを

未来に押しつけていたことに

気がつきました。

 

内容ごとに分けて

管理をするという視点は

時に自分自身に完璧さを要求してしまいます。

 

年月を積み重ねるほどに

管理するものも増え

難易度の難しいパズルになっていきます。

 

それが楽しいと感じていたこともありますが、

区切りのない大変さが

これ以上続くことを考えると

苦しみでしかありません。

 

もう今年も12月です。

また一つ大きな区切りに差し掛かっています。

 

最近ありとあらゆることの管理を

内容別→時系列に移行し始めました。

 

画像

パソコンのデータ

手書きのメモ

物理的なもの

制作のアイデア

 

あらゆるものに

時間という情報をもとに

仕分けるということをしてみました。

 

それだけのことなのですが、

管理することに

いわゆる区切りが生まれたのです。

 

食べ物に置き換えるとわかりやすいですが

食べられる期限、活かせる期限というものが

見えてくるのです。

 

これがいつの情報で

どういう時に必要だったか

ということが見えてくると

この先活かせるかどうかの

判断の指針になります。

 

内容ごとだと(情報に複数の側面があるが故に)

カテゴリー分けが難しい内容も

年代ごとに分けることで

カチッと定位置が決まるのです。

右にいったり左に行ったりしてた情報が

・いるか(その時の情報として残すか)

・いらないか(捨てる)

・別の形で活かすか(今後のアイデア、課題)

の3択になりました。

 

何かと自分の正しさに執着してたのでしょう。

時系列というそのことの

重要さに気づくのに

10年も費やしました。笑

 

区切りの大切さに気づけたことで

積み重ねていくことの

恐怖を克服できるのではないか

今はそんな気持ちでおります。

 

ブログを始めようと考え行き着いたのも

カテゴリーに囚われ完璧さを

目指すのではなく

その時その時に感性を大事にしよう

そんな想いがあったからです。

 

物事の管理だけでなく

自分自身の生き方 考え方も

時系列に沿って今を生きられたなら

今後なにかが変わる。

 

漠然とそんな気がして

今日はブログを書きました。

 

 

 

 

無尽蔵

近所のお風呂さんにて

お湯に浸かりながら

段々と自分が空っぽになっていくのを

感じてた。

 

身体の大きな人がお湯から出ては

波が起きて自分の身体が揺れた。

 

突然の勢いに

抗うでもなく

ゆらゆら

 

熱いお湯に

凝り固まった思考も段々と溶け出して

なんだか波と同化したような感覚で

ゆらゆら

 

視界が揺れて 意識が揺れて

思考が定まらなくなっては

自意識を見失いそうになる。

 

でもなんだかそれが心地が良い。

 

このまま溶け出してしまうなら

それはそれでいい。

 

肩の力が抜けて

段々と色んなものの

差がなくなっていく。

 

あぁやっぱり

余計なことはいらないんだ。

 

力めば力むほどに

見えなくなっていった世界と

しばらくぶりに繋がれた気がした。

 

いいお湯に浸かっていただけ。

薄れていく意識に星空が広がった気がした。

 

自分の中にも

宇宙は繋がっているのかもしれない。

 

自分を脱ぎ捨てても自分は自分。

けれど

自分は自分でなくとも良いのかもしれない。

 

しがみつかなくとも流れの中。

ぼこぼこと湧き上がっては

消えていく泡を

ただただ見つめては

感じてた。

 

当たり前のように

当たり前のことが目の前で起こってる。

自分の思考がいくらそれに抗っても

そのルールや理に干渉してしまうことはない。

 

何か絶対的なものの前では

思考はあくまで思考でしかなく

風呂屋さんの湯船に真実を見た気がした。

 

ものや存在に価値があるように

余白や空間にも価値がある。

 

泡がぼこぼこと

波となっては

湯気が立ち

カタチを変えながらも

なくなってはいない

 

何もないことの本質を見てみたい。

 

思考も

私自身も

環境も 

隔たりなど超えて

繋がっているように思えてならないのだ。