池田卓哉ブログ 風光日々新(ふうこうひびあらた)

素直な心で表現する場にしよう。そんな想いで始めたブログ。

この目でこの目を見る

ここ何日かずっと考えている。

自分が本当にやりたいことは何か?

 

色々削ぎ落としてみて

行き着いた答えは

“心の声とお話をしたい”ということ

表現を通した心の対話。

 

表現とはひとつ

私にとっての“目”かもしれない

とふと思った。

 

私が見たもの考えたこととしての

私自身の目

 

見えるばかりが全てじゃない。

見えないものに目を向けて

目を凝らす日もある。

 

誰かの表現を前に

表現する人の目を覗き込む時

その目(表現)を通して

この目でこの目を見てることに

ハッとすることがある。

 

 

私の目を見てる誰かが

自分の目に映るその人

自身をみてることがある。

 

誰かに言ってるようで

自分自身に向けられた言葉とか。

 

目の奥で見ているのは

他人か自分自身か。

 

 

窓ガラスの反射越しに重なって映る

自分とその向こうの誰かに

語りかけるような

語りかけられているような

 

「あなたは誰?」

問いかけながら

問われてるのは自分

 

今の私にとって表現とは

目と目の対話。

 

「言葉を尽くさずとも

あなたの言いたいことは分かったよ。」

 

そんな微笑み 

そんな頷き

そんな意思の疎通。

 

対話とは

説明ばかりのやりとりじゃない。

 

沈黙が対話だってこともある。

 

風に揺れる木々が

今日は何かを言いたそうに見えた。

 

道標

“頭や理屈ではなく

感性や心をつかって表現がしたい。”

 

表現を続けていくにあたっての

今の自分の願望であり

どう生きたいのかの指針です。

 

どんな人間でありたいか?

大事にしたい価値観はなにか?

 

自他問わず

本心の部分(心の声)に

耳を傾けることのできる人でありたい。

 

気づいてくれてる人がいる。

理解してくれてる人がいる。

という状態は安心であり

癒しだと思うのです。

 

 

まとめると

 

自分の価値観を大事にしながら

やりたいこととは何か?

自身自身が本心や心の声と対話をしながら

感性や心をつかって表現をする。

 

それが見てくれた人にとっての

心の声との対話の

きっかけになったら嬉しい。

 

どこに向かってるのか、

時々迷うこともあるけれど

自分の望みに旗を立てたら

少し視界が開けた。

 

改めて

前を向いて進めそうな気がした。

大丈夫

人の心の光と影。

存在するものはみな多面的だ。

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表現とは何か?

本当の事とはなにか?

自分自身に問いかける。

 

人間らしい生き方ってなんだろう。

人間的価値とはなんだろう。

 

大変なこと辛いこと

ネガティブなことは

見ない

あるいは

なかったことにしてしまいたい。

 

それは人の心理なのかもしれない。

 

楽しいこと

良いことばかりに目を向けることは

ポジティブなのかもわからないけれど

 

都合の悪いことに対して

無関心を装うその姿勢は

愛から程遠い。

 

他人に対してもそうだが

自分自身に対しても

してしまってる無関心。

 

開きたくない感情の扉。

今もそこにいる小さな子ども。

 

恐らく今も待っている。

 

「大丈夫?」

そう聞いて欲しいのではなくて

「もう大丈夫だよ。」

そう言ってくれる誰かをずっと待っている。

 

 

唐突に入り口の窓ガラスが割られたあの日

入り口は逃げ道としては塞がれ

そこから逃げるには

5階のベランダから

飛び降りるしか選択肢はないと思った。

だけど怖くて出来なかった。

 

「誰か助けて下さい。」

喉が潰れる程に

外に向かって大声で叫び続けたけれど

見ず知らずの自分達を

助けに来てくれる人は誰もいなかった。

 

怖くて逃げられなかった自分。

立ち向かっても傷つくばかり。

 

結局、警察のお世話になった。

 

その場しのぎの解決しか見いだせず

自分の力で何も変えられないことが

ただただ悔しかったことを覚えてる。

 

暴力に対して暴力で立ち向かっても

終わらない戦い。

自分の正しさを押し付け合う

その渦の中にいたら終着地点は

誰かがが死ぬまで続いたと思う。

 

白黒つけることが

自分の正義だと思ってた10代。

 

自分の正しさを押し付ける以外の

正しさを探した20代。

 

30になった今でも許せない線引きはある。

 

けれども許せないことは

自分自身をもその対象に縛りつけてしまう。

 

許せないことまで許す

というのはなかなかできることではない。

 

けれど人はひとつひとつ

許すことを考え経験しながら

物事を多面的に見ることを

学んでいく。

 

何故 人は何かが許せない時

許せない気持ちが自分自身へも

向いてしまうのだろう。

 

もう十分に苦しんだんだから

解いて良い。手放していい。

 

今では身の危険を感じることはないけれど

決して過去の出来事は

なかったことではない。

けれど今でも恨んでいるかと言えば

違うしそこに強い執着はない。

 

 

ただ時折り

人の表現、祈りに触れて

自分の心が共鳴する時

 

自分の口からも

「もう大丈夫だよ。」と

その言葉が出かかるのだ。

 

作り物ではなく

本物と言いたくなる心 (表現)に触れて

“何の為に自分は表現を続けているのか?”

問われた気がした。

 

ずっと誰かに言って欲しかった言葉

自分自身もいつか誰かに

言える人になれるだろうか。

 

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大事なこと

 

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あれも大事 これも大事って

 

完璧主義になって

何かをこなそうとする時は

本当に大事なものがなんなのか

わからなくなってる時かもしれない。

 

あれもこれも

ではなく選択をする。

 

自分にとって大事なことを

大事にする。

 

きっと人は

両の手のありがたみさえあれば

十分に幸せでいられるのではないか。

 

何が大事か

今一度

自分に問いかけてみる。

 

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無意識に吹き込む風

なんだか心がざわざわしてるのを感じて

どうしたら心が整うのか

考えながら帰り道を歩いた。

 

本屋で答えを探しても見つけられず

ベンチに腰掛け一息をついた。

 

目を閉じると少し強い風が

僕にぶつかりながら

留まることなく

どこかへ去っていくのを感じた。

 

なんだか今日は

ざわざわと風も強く吹いている。

 

思考から感覚に切り替わる時

ほんの少し前まで

自分の人生の操縦席のような

大事な場所を何か別の者に

奪われていたような

そんな怖さがある。

 

「ああ、今日は風が強いな。」

そんな認識と同じように

心を観察する。

 

「ああ、今日はざわざわしてるな。」

 

強い風を止めることが

できないように

抗うのをやめてみた。

 

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決して写真映えのする空の色じゃない。

 

それでも刻々と変化していく

何気ない空の色が

急に特別に思えて

不思議と何かが込み上げる。

 

あぁ、

見え方が変わったのだとハッとした。

 

いろカタチの変化ではなく

目に映る景色が

別の世界に切り替わる

そんな一瞬。

 

 

さっきまでざわざわしていた

心が

少し嬉しそうだった。

 

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誰そ彼 ーたそがれどきの会話ー

もしも魂を見ることができたなら

僕の魂はどんなカタチ 

色をしている?

 

ちゃんと光は放っているか?

熱を帯びているか?

 

どこからきたのかは知らない。

 

けれどもどこかへ行きたがっている。

 

どこに行きたいの?

誰に会いたいの?

何を望んでいるの?

 

これからの行き先は心に聴いて生きる。

 

思考ではなく感覚と話をする。

 

僕は僕の中に空を見つけた時

肉体と思考を超えて

なんだか透明になれた気持ちになる。